志を立てるのに遅すぎることはない

日本人が長年親しんできた人生設計のヒナ型は「われ三十にして立つ、四十にして迷わ ず、五十にして天命を知る」という孔子の言葉です。これをモノサシにすると、五十歳以後 は余生のイメージになってしまいます。人生五十年時代はそれでよかったかもしれませんが、いまはまったく現実に合わなくなってきています。

にもかかわらず、このモノサシはまだ使われていて、四十、五十になると気持ちのうえ で若さを失ってしまう人が多いようです。だが人生五十年時代の三十歳をいまの八十年 時代に直すと約五十歳、四十歳は約六十歳です。つまり孔子の言葉は現代では「五十で 立つ、六十で迷わず、八十にして天命を知る」ということになります。

ふつう志を立てるのは二十代か三十代までで、それより上の年齢になると「もう遅い」 と思ってしまうようですが、五十歳近くで志を立てても遅くはないのです。四十はまだ鼻たれ 小僧、いまの時代孔子の年齢を額面通り受け取るのは、若年寄りの考え方です。

それに孔子の言葉は「五十にして天命を知る」でおわっているわけではありません。このあと に「六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)をこえず」とあります。

これは現代では「九十にして耳順う、百にして心の欲するところに……」となるでしょう。 これが現代の寿命観にあった年齢感覚といえるでしょう。

世間では二十歳で成人とみられていますが、心身共に大人の仲間入りをするのは現代では 三十歳です。だから人生の本当のスタートは三十からと考えるべきです。もっとも現実的 なのは自分の生理年齢の八掛けくらいを精神年齢と思うことです。四十歳なら三十二歳、五十歳ならいま自分は四十歳と信じればいい、仙崖和尚は次のようにもいっています。

  • 六十歳は人生の花
  • 七十歳で迎えがきたら「留守」と言え
  • 八十歳で迎えがきたら「早すぎる」と言え
  • 九十歳で迎えがきたら「急ぐな」と言え
  • 百歳で迎えがきたら「ぼつぼつ考えよう」と言え

葛飾北斎は七十三歳で「富嶽百景」を描いたとき、その前書きで「九十歳にしてなお奥 意を究め、百歳にして神妙ならん、百有十歳にして一点一画にして生きるが如くならん」 と自分の志を語っていります。人生において「志を立てるのに遅すぎるということはない」 (ボールドウィン)というのは本当です。